渋沢栄一は、日本の産業の礎をつくった人物として知られている。設立に関係した有名企業では、世界遺産にも登録された旧富岡製糸場をはじめ、日本郵船、みずほ銀行、イオン、KDDI、清水建設など枚挙にいとまがない。現代ビジネスパーソンにも活用できる、渋沢栄一のビジネスマインドとは?

目次

  1. 渋沢栄一とはどんな人物なのか
  2. 渋沢栄一が「近代日本資本主義の父」と呼ばれる所以
  3. 渋沢栄一とは対極の考えを持つ三菱財閥の祖・岩崎弥太郎
  4. 交わることのなかった渋沢栄一と岩崎弥太郎の考え方
  5. 世の中は正反対の者同士がバランスをとっている
  6. P.ドラッカーから見た、渋沢栄一と岩崎弥太郎

渋沢栄一とはどんな人物なのか

大河ドラマの主人公・渋沢栄一に学ぶ「道徳経済合一説」のビジネスマインド
(画像=a_text/stock.adobe.com)

「近代日本資本主義の父」渋沢栄一を主人公にしたNHK大河ドラマ「青天を衝け」がスタートした。初回視聴率は20%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と好調で、経済史上の人物を主人公にした内容にしては注目度が大きいことを裏付けている。

1840年(天保11年)、現在の埼玉県深谷市に生まれた渋沢栄一。実家である渋沢家は、染料となる藍玉の製造販売を手掛けるほか養蚕や作物も作る大きな農家で、幼い頃から商業的な才覚が必然的に磨かれることとなった。また、渋沢家は教育にも力を入れており、7歳のころには、従兄から学んだ論語はその後の渋沢栄一に大きな影響を与えることとなった。

その後の渋沢栄一は倒幕を計画したり、逆にその幕府に仕えることとなったりと紆余曲折を経て、フランスに留学。そこで、ヨーロッパの産業や制度など近代社会の在り方を目の当たりにする。最も衝撃が大きかったのは経済を動かす商人の地位の違いで、江戸時代の日本では商人の身分は最も低かったのに比べ、フランスの実業家は、国の経済と文化を支える堂々たる存在として社会に認められていた。このような体験をした渋沢栄一は、常に天下国家的視点から、個人で儲けを得るための知恵より、どうすれば世の中が発展して豊かになっていくのかを考える素養が身についたと考えられる。

渋沢栄一が「近代日本資本主義の父」と呼ばれる所以

フランスから帰国した渋沢栄一は、新政府から民部省租税正という役職に任命される。そこで、度量衡の制定や国立銀行条例の制定に尽力。その後、民部省が合併した大蔵省では造幣に携わるなど活躍したが、予算編成を巡り大久保利通らと意見が合わず退官することとなった。

実業家となり、ここから次々と銀行や株式会社を立ち上げてゆく。第一国立銀行(現在のみずほ銀行)、東京貯蓄銀行(現在のりそな銀行)、日本勧業銀行、日本興業銀行などである。

事業会社においては、1873年(明治6年)に以前から構想を練っていた製紙会社を設立 (現在の王子ホールディングス、日本製紙) 。同じ年に東京ガス、1876年(明治9年)に石川島平野造船所(現在のIHI、いすゞ自動車)などを設立。1879(明治12年)に東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)、1881年(明治14年)に日本鉄道会社(旧国鉄、現在のJR東日本など)、1882年(明治15年)に共同運輸会社(現在の商船三井)を設立するなど、生涯で設立や経営に関わった会社は500以上にも上るとも言われ、「近代日本資本主義の父」「実業の父」と称されることとなった。特筆すべきはこれだけの会社の設立に携わりながら、自ら株式を持たず、設立したら自分は身を引くというスタイルで、財閥のトップに君臨することはなかったことだ。

渋沢栄一とは対極の考えを持つ三菱財閥の祖・岩崎弥太郎

渋沢栄一を語るとき、よく引き合いに出されるのが三菱財閥を築き上げた岩崎弥太郎だ。1835年(天保5年)土佐藩の地下浪人の長男として生まれた。若き日の岩崎弥太郎は、放蕩三昧を尽くして官職を失うなどあまりまっとうとは言えない日々を送っていたが、勉強熱心で知識もあったことから、後藤象二郎に見出される。そして、土佐藩で行っていた海外との武器取引をはじめ、かつお節や樟脳(しょうのう)などのビジネスを任される。

その後、明治政府は各藩が行っていた事業を禁止する方向で動いたため、これら事業は土佐開成社という私企業をつくって、そこに引き継がせる形をとった。これがのちの九十九商会となり、岩崎弥太郎が経営することとなったのである。九十九商会は三川商会と名を変え、さらに、1873年(明治6年)三菱商会に社名変更、翌年には社名を三菱蒸汽船会社とした。現在の三菱のマークは、この時に定められたものである。

1874年(明治7年)日本政府は台湾へ出兵を決定するが、海外を植民地にするための派兵にアメリカやイギリスは船を貸さず、この時の軍事輸送を岩崎弥太郎の三菱が引き受けた。ここから、三菱は政府御用達の独占企業としての色合いを強めていく。1877年(明治10年)西南戦争の際、三菱の汽船は政府の徴用に応じて軍事物資の円滑な輸送に寄与したことから、1年で東京市の年度予算を超えるほどの莫大な利益を上げた。

政府の仕事を独占受注することで巨大になった三菱に対して、世論をはじめ政府の要人からも厳しい目が向けられ、「国賊」とまで言われたが、岩崎弥太郎は全くひるまなかったという。

交わることのなかった渋沢栄一と岩崎弥太郎の考え方

西南戦争の軍事輸送で大儲けした翌年1878年(明治11年)に岩崎弥太郎は、渋沢栄一を向島の船宿に誘って大きな宴会を催した。まず、2人は船の上で天下国家やお互いの経営観について意見を交換していたが、岩崎弥太郎の狙いは渋沢栄一と手を組んで日本の実業界を思い通りに動かすことにあった。「手を組まないか」という岩崎弥太郎の申し出に対し、大きく考え方が異なる2人の議論が白熱する。

「会社の形はしているが、三菱は自分の一家の家業である。利益は社長一族のものである」と言い放つ岩崎弥太郎に対し、渋沢栄一は「会社は多くの人の資本と知恵を結集し、経済を発展させるためにある。利益は独占するのではなく、国全体を豊かにするために、富は全体で共有するものとして社会に還元するべきである」との考えを述べた。

結局、渋沢栄一は、お手洗いに行くふりをして帰ってしまったという。

世の中は正反対の者同士がバランスをとっている

渋沢栄一は1916年(大正5年)『論語と算盤』という著書を出し、「道徳経済合一説」を説いた。これは、栄一が5歳のころから学んだ論語が論拠となっている。

栄一は、国を豊かにするために得た富は全体で共有、社会に還元するべきであると説き、自らもそれを実践してきた。これに反した道徳にもとる自己中心的、利益誘導的策略に基づく経済はそもそも国のためにならず、長続きすることがないという。

一方、岩崎弥太郎は商機をうまくつかむことにたけており、政府の受注を一手に引き受け、独占するなど策略的ではあったが、日本海運の進歩発展に寄与した功績は大きい。

この2人の考え方はどちらが正しいのだろうか。

P.ドラッカーから見た、渋沢栄一と岩崎弥太郎

P.ドラッカーはその著書『断絶の時代』のなかで、渋沢栄一と岩崎弥太郎は日本の近代経済発展の歴史上、この2人で大半の製造業をつくりあげたことをあげ、2人の意見が正反対であったにもかかわらず、「今日では2人とも正しいことが明らかである」と述べている。つまり世の中はすべて、正反対の者同士がバランスをとって動いているということだ。

国家・社会全体を俯瞰的に見てその発展のために考えることと、自ら儲けるためにひたすら努力すること。この2つは両輪であって、どちらかが欠けていては成立しないということに、結論は落ち着いていく。

近代日本の発展と渋沢栄一のビジネスマインドを理解したうえでドラマを鑑賞すれば、いち視聴者としてだけではなく、ビジネスパーソン・経営者という視点でもいっそう興味が増すはずだ。